
現代知られている世界最古遺跡といえば、ギョべクリ・テペで、紀元前10000年前くらいのものであろうと言われています。場所は現代のトルコ南東部、文明の発祥地となったチグリス・ユーフラテス川に挟まれたアナトリアの南東に当たります。
ギョべクリ・テペ
放射性炭素年代測定では、メソポタミア文明よりも7,000年ほど昔に文明があったことを確認できる遺跡です。
そして、驚くべきこととして注目されているのは、そこが宗教施設として使われていた可能性が高いということです。
これまでの歴史では農耕が始まり、灌漑農業が起こり文明へと発展して行ったと考えられていましたが、この年代測定が真実なら、農耕が始まったとされているより以前から、宗教があったということになってしまいます。
さらに、この遺跡は多種多様な動物などのレリーフ(ライオン、ヒョウ、ハゲワシ、サソリ、クモ、ヘビなど)を施した巨石建造物です。
重さは10トンを超えるものもあり、制作に携わった人が大勢いるはずですが、近くには住居の形成期を見つけることができません。
人々の生活の形跡が見つかっていない
ギョべクリ・テペの遺跡は宗教施設であり、祭祀が既に行われており、さらには墓地の概念も存在していました。頭蓋骨に死後加工を施したものが発見されており、『頭蓋崇拝』の原型ではないかと言われています。
また、発掘された土偶のような石像には意図的に口を破壊したり、頭部を破壊したような形跡も見つかり、おそらく生贄を捧げるため人の身代わりとして用いられた『生贄信仰』の始まりなのではないかと言われています。
人類は農耕に先立って、宗教儀式、神託を問うような概念を有しており、そのための神殿を作り、神殿を作るための働き手としての人員と人員のための食料を確保すべく農業が発展したようです。
農業以前は狩猟生活ですが、狩猟生活をしながら片手間に神殿を作るということは困難に違いありません。
神殿建築には石を切り出す職人をはじめ多くの人手が必要です。そして建設の間中、食料を安定して得ることが必要です。
そのため捕まえた生き物を囲いの中で飼って増やしたり、種をとって食物を増やしたりして行ったのでしょうか?
幾何学的な知識
さらに謎を深めているのは、ギョべクリ・テペの遺跡が幾何学的な知識に基づいて建てられていたことです。
最初期につくられた3つの丸いくぼみの中央地点は底辺となる線の垂線から結ぶと、綺麗な正三角形を描きます。
エデンの神殿
そして、このギョベクリ・テペの意味は『太鼓腹の丘』という意味がありますが、別名は『エデンの神殿』とも呼ばれメソポタミア北部のこの土地が旧約聖書に出てくる、四つの川の間に位置しているからです。
一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
創世記2章10−14
テル・ハラフの遺跡
そして、メソポタミアの先史文化とされているのが、ハラフ文化です。
代表的な遺跡はトルコ南部の国境近くのメソポタミアの北部、テル・ハラフで発掘された城壁です。これこそが北部メソポタミアの先史時代文化であるとするのが一般的な見方です。
他にもハッスナ、サーマッラーなど、テル・の周辺には分布が異なる“小さな文化”が存在していたことがわかっています。
ハラフ文化は後期になって、南メソポタミアへ拡散しそれがウバイド文化に交代して行ったようです。
ハラフ文化では四角い集合住宅で暮らし、彩文土器という研磨して仕上げられた非常に美しい土器を使っていました。この頃は農耕は行われていましたが、それは雨水にたよる乾燥地農業でした。植物の万年筆で粘土板に文字を刻んだのもこの時期だと言われています。
やがて、ため池を作って灌漑農業が行われるようになると、爆発的に人口が増えていきます。
そして、メソポタミア文明へと繋がっていきます。

シュメール王朝王名表
シュメール王朝王名表が作られたのは、ウル第三王朝時代でなんと24万1200年の統治があり、その後洪水が起きてキシュ第一王朝が始まったと書かれています。
在位期間も現代の私たちの寿命ではありえない長さとなっています。
世界一有名な聖書中の洪水、ノアの洪水ですが、その記述も洪水後の人間たちの寿命は少しづつ縮んでいて、やはり聖書の原型はシュメールにあるのでしょうか。
