ヤコブにはたくさんの子供達がいました。
ヤコブの妻ラケルとの間に産まれた子供はヨセフとベニヤミンだけでした。
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ヤコブの11番目の息子がヨセフです。
ヤコブはヨセフをどの息子よりもかわいがったため、ビルハやジルパの産んだ子どもたちから疎まれることになります。
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ヤコブは兄であるエサウに赤い煮込み料理を作り、食べさせてほしいと言う兄エサウに対して、引き換えに長子の受ける権利を求めます。
さらには、父ヤコブからの祝福を得る際に、私はエサウですと名乗って祝福を勝ち取っています。それによってエサウの怒りを買ったヤコブは母親の兄のもとへ逃げて暮らすことになります。
そもそもエサウが自分の持っていた長子の権利を軽んじたことが原因ですが、それによってヤコブは、大きな家族を得て、裕福になりました。
時期が来て、ついに兄エサウと再会する日がやってきます。
再会に備えて様々な準備をしますが、ヨセフと妻のラケルは大所帯の一番後ろに置いて再会を果たします。
理由はエサウを恐れ万が一に備えて、二人を守るために一番安全な場所に置いたのです。
それほどまでに父親からの寵愛を受けたヨセフだったのです。
この再会の前に、ヤコブと天使との相撲のシーンが有り、今後イスラエルと名乗るようにと告げられます
母ラケルの死
エサウと父ヤコブが再会を果たした後、母ラケルはベニヤミンの出産が難産でそれが原因で亡くなってしまいます。
ラケルはベツレヘムに向かう道のそばに葬られます。
兄弟たちから疎まれる
ヨセフの父ヤコブのころ一夫多妻が聖書の中で当たり前に容認されていましたから、ヤコブも正妻ラケルを含め4人の妻がいました。上図をご覧ください。
そして、設けた子どもたちがいわゆるユダヤの12支族となっていきます。
ヨセフが産まれたのはヤコブが老齢になってからだったためかものすごくヨセフを可愛がります。そのため、他の10人の兄弟達は(ベニヤミンはまだ産まれていない)ヨセフを疎ましく思っています。
ラケルの死後のある日、ヨセフは夢をみました。
ヨセフの見た夢
ヨセフは彼らに言った、どうぞわたしが見た夢を聞いてください。
わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしの束が起きて立つと、
あなたがたの束がまわりにきて、わたしの束を拝みました。
創世記37:6,7
わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました
創世記37:9
1つ目の夢
・束
ヨセフが後に高い地位を得ることになり兄弟たちがヨセフに対して跪く
2つ目の夢
・太陽 月 十一の星
太陽は父イスラエル 母はラケル 十一の星は他の兄弟たち
兄弟たちが自分にひれ伏し、2つ目の夢では父や母までもが自分を拝むという夢ですから、これを聞いた兄弟たちはますますヨセフを嫌います。
さすがに父イスラエル(ヤコブ)もヨセフを咎めたと書かれています。
しかし、イスラエルはそれと同時にその言葉に予言的な意味合いを感じ、この出来事を心に留めます。
兄弟たちはヨセフのことを『夢見るもの』と呼び嘲ります。
夢によって未来を知るということと心霊術の関係
ヘブライ語聖書の中で夢は時折神からの啓示であったり、神に命じられたことを確信する助けになったり、夢を見ることが予言的な意味合いを持ったりしたと記述されています。
しかし、同時に神からの夢と、占いや心霊術による夢とは別のもので後者は許されていません。つまり、聖書の中では神から与えられる情報と、シャーマン的に得た情報とはちがうものだという解釈です。
しかし見分け方はあるのでしょうか。
心霊術に関する記述
ヘブライ語聖書なかで、心霊術に関係する神のことを無価値な神と呼び、蛇使い、霊媒師、占い師、心霊術、運勢を占いうことをすべて邪悪な天使の力で行うと書かれています。
一方、ヨセフの見た夢は神からのものであると強調されています。
具体的に何がどう違うのか、立法に従うべきであって、生きてる人の事を死人に問い合尋ねることなどあって良いわけがないと書かれています。
死後も生き続ける
肉体が死んでも霊が生き続けて、その霊の影響を受けやすい人が居て交信することができるという考え方は当時すでに広まっている考え方でした。
そして、時には生きていたその人のままの姿が現れたり、声がしたりします。ヘブライ語聖書ではそれら一切すべてを禁じています。ギリシャ語聖書(新約聖書)黙示録の中では、魔術的なことと薬物を結びつけており、ファルマキアという言葉を使っています。
このファルマキアという言葉はファーマキーと言う言葉の語源になっており、麻薬・薬物を使用するという意味があるようです。
確かに、薬の多くは毒性があり毒の性質や、人の症状によって適量使用した場合には効果的な薬となりますが、使用方法を謝ると有害な反応が出て毒になるものだと言えます。ですからこの言葉自体が悪いわけでは決してありません。

ヨセフを殺害する計画
兄たちは、父親の寵愛を受け夢見るものであるヨセフを憎み、ヨセフを殺してその夢がどうなるか見ようではないかと話し合い、ヨセフは獣に襲われたことにして殺して井戸に投げ込もうと計画します。
この時、一番上の兄 ルベンは彼を殺すことはならないと、殺害を阻止します。
そして、やってきたヨセフの衣服を剥ぎ取って水の入っていない穴(井戸?)にヨセフを入れます。そこへイシュマエル人の隊商がエジプトへ向かうためにその場所を通りかかります。
当時、家畜達の移動に際して要所要所で水を飲ませるような場所があったようです。ヤコブとラケルが出会った場所もその様な場所でしたからおそらく深い井戸の底ではなさそうです。
兄弟たちは、ヨセフを殺すよりイシュマエル人たちに売るほうが良いかもしれないと話し合って、銀20シケルでヨセフを売ってしまいます。その時ルベンはその場に居なかったようで、売る提案をしたのはユダでした。
ルベンが戻ってきて、穴を見るとヨセフが居なかったため自分の衣服を裂き、嘆きます。
兄弟たちがヨセフを穴に入れたときにはルベンは居なかったようです。
記述では唐突にルベンがあとから来ていることが示唆されていて、荒ぶる兄弟たちに殺害だけは辞めさせて、後からこっそりヨセフを助けようと考えていたと思われます。
衣服を裂く
ルベンがヨセフが居なくなってしまっていたことに対して、衣を裂くという行動をしています。このような場面は聖書の中に何度も出てきて、ストーリー上は悲しいことがあった時に悲しみを表現しているとのことです。
悲しくて頭を抱える様な感じでしょうか、日本人的な感覚で言えば、自分の衣服を裂くという行動は不自然に感じますが、一般的な解釈では古代ユダヤ人の悲嘆を表す仕草だと言われています。情緒の表現が激しい国民性は確かにあるのだと思います。
現代のユダヤ教では葬儀の際に薄手のガウンを引き裂くとか、切れ目を入れるなどするそうです。であるなら儀式的な意味合いもありそうです。
だとすると、罪による汚れを祓う一種のみそぎ的な意味にも受け取る事ができそうです。

自分は反対して、手は下していませんということを神のみ前に証明するという側面もあったような気がします。
イスラエルに報告する
兄弟たちは先程剥ぎ取ったヨセフの衣に雄山羊の血を付けて、父ヤコブの元へ行き、自分たちが行くとこれだけが残っていたのですと言ってヤコブにヨセフの服であることを確認させます。
その服は、ヤコブがヨセフのために特別に作らせた長い服でした。
ヤコブはそれを見て、自分もあの子の元へ、陰府に下っていこうと嘆き悲しみます。
一方、売られたヨセフはエジプトに着きファラオの護衛の役人、ポテパルという人にヨセフを売ります。
陰府
この言葉は、ヘブライ語でシェオルという言葉で、霊魂が死後消滅すると考える宗教では、無活動、無意識という意味があり墓を表しているとされています。
一般的には暗くて天とは違う場所、地獄ギリシャ語のハデス、ゲヘナと同じだとされています。この捉え方は宗派によって様々で、訳し方に酔っても異なる解釈ができます。
黄泉の語源となっていると言われています。
ポテパルの家
ポテパルの家で奴隷として働くヨセフでしたが、ヨセフはエジプト人であるポテパルに気に入られました。それは、ポテパルの家が次第に豊かになっていくことを実感したからです。
きっと、このヨセフの信じる神のご利益であろうと思ったのです。
そこで、ポテパルはヨセフに家のことすべてを任せることにしました。
少年だったヨセフは成長し、美しい顔立ちの凛々しい若者へと成長します。するとポテパルの妻がヨセフに自分と寝るようにと、言い寄るようになります。
ポテパルの妻は毎日ヨセフに言い寄りますが、ヨセフは二人きりにならないように注意し仕事を続けます。

ヨセフはその理由をこんなふうに述べています。
この家に私の上に立つ人はいません。ご主人さまが私に下さらないものはありません。
でもあなたは別です。奥さまだからです。そのような非常に悪いことをして神に対して罪を犯すことなど、どうしてできるでしょうか。
しかしある日、ポテパルの妻はヨセフの服を掴み実力行使に出ます。
ヨセフは自分の服を残したまま外へ逃げますが、妻はヨセフに襲われそうになったと嘘を夫に伝えます。
ポテパルは妻の言葉を信じ、ヨセフを牢獄に入れてしまいます。
牢獄
罪人として牢獄に入れられたヨセフでしたが、やがて牢獄の長に気に入られるようになります。
そして、牢獄内の囚人たちの監督を任せるようになります。囚人たちはすべてヨセフの指示に従いました。
そんなある日、エジプトの王に仕えるぶどう酒を給仕する献酌人とパンを焼く料理長が王に対して罪を犯し牢屋に投獄されます。
夢解き
ある日、献酌人と料理人の二人が夢を見ました。
三つ目の夢
献酌人が見た夢
献酌人が見た夢はぶどうの木に3本のツルがあって新芽が出て花が咲きぶどうの房が熟していたのでその葡萄をファラオの杯に絞り手渡しするというものでした。
ヨセフはその夢の解釈として、三日後にあなたはここから釈放されファラオのもとに戻ることができます。と告げて、その通りになったら私のことを思い出して私のことをファラオに話し私がここから出られるようにしてください。と話し投獄されるようなことはしていませんといいます。
四つめの夢
料理人の見た夢
一方、料理人の見た夢は3つの籠にファラオのために焼いたパンが入っていたけれど、鳥たちが来てそれを食べてしまったというものでした。ヨセフは3つは三日後のことで、ファラオはあなたの首をはねて、鳥があなたの肉を食べるでしょう。
三日後はファラオの誕生日で、宴の席で献酌人はもとの職に戻され料理人は処刑されヨセフの行ったとおりになりました。
しかし、献酌人はヨセフのことを忘れてしまいます。
ファラオの見た夢
二年後、ファラオが夢を見ます。
五つ目の夢
七頭の雄牛の夢
ナイル川の近くに立っていたときに肉付きの良い美しい7頭の雌牛が上がってきて草を食べていると、痩せ細った醜い7頭の雌牛が上がってきて肉付きの良い雌牛の横に立ち、美しい7頭の雌牛を食い尽くしてしまいます。
六つ目の夢
七つの穂の夢
穀物の1本の茎から実の詰まった立派な穂が7つ出ています。その後、東からの熱風で干からびた細い穂が7つ出てきて、実の詰まった7つの立派な穂をのみ込んでしまいます。
ファラオはこの2つの夢にただならぬものを感じエジプト中の、賢者や魔術師を集め夢の解き明かしをさせようとしますが誰も解くことができませんでした。
そんな時、献酌人がヨセフのことを思い出し、ファラオに牢獄での出来事を話します。
ファラオの前にでる
ファラオはすぐにヨセフを連れてこさせて夢の解き明かしをさせます。
ファラオの前にヨセフが立つ前に、髭を沿ったと書かれています。当時の男性たちはヘブライ人に限らずあごひげを蓄えるのが一般的でしたが、エジプト人だけは東洋の中で唯一のあごひげを生やそうとしない国民でした。
聖書・神学・教会 文献百科事典
夢の意味は7は七年のことで、7年の豊作の後に、その豊作が思い出せないほどの七年間の飢饉が来る当意味だと告げます。
さらに、対処法として賢い人間をさがしてエジプト全土を管理させ豊作の間に、収穫量の1/5を集めて備蓄するようにと提言します。
そんな事があり、ファラオの信頼をも得たヨセフは王に次ぐ二番目の地位を得ることになります。
ファラオは自分の認印指輪をヨセフに渡し、亜麻布の服を着せ、金の首飾りをつけさせて
兵車に乗せ凱旋するのですが、その際に民衆は『アブレーク』といったと書かれています。
エジプト全土の管理官に任命されたヨセフ。その時30歳でした。

認印指輪
この指輪は支配者や役人の権威を象徴するもので、主に書簡を封印する蝋や粘土に押されたようです。
古代エジプト
この時代のエジプトは専制君主で圧倒的な権力を持つ一人のファラオと数少ない高官たちがすべてを支配する奴隷制国家でした。宗教は多神教で、ファラオも神格を持つとされていました。
アブレーク
この言葉の本当の意味には諸説ありますが、跪け、頭を垂れよ、という意味だと言われています。当時、エジプト人は自国民以外の外国人を蔑んでいたため、その言葉には生まれながらのエジプト人になったという意味があったとする見方もあるようです。
新たな名前
創世記4章45節にはファラオがヨセフにザフナテ・パネアというエジプト風の名前を与えた事が書かれています。
さらに、祭司ポテフェラの娘アセナトを妻として与えられます。アセナトの間にはマナセとエフライムが産まれます。
ザフナテパネア
ザは頭
フは彼
ナテ ナハテは強い勇者
パネアは力強き勇者
ポテフェラの娘アセナト
ポテフェラ
エジプトの王に仕える祭司長です。オンの祭司ポテフェラと紹介されています。名前の意味は太陽神ラーの文字が含まれており、太陽神ラーに関係する祭司だと考えられます。
オン
回路の北東に位置する地名で、アーヌ、ウーヌとも呼ばれています。
柱の都市という意味があります。先端がピラミッド型になった柱状のオベリスクを指しているものと思われます。このオベリスクは太陽神を祀っています。
史実なのか
政府の高官となったザフナテパネアこと、ヨセフですが、この場所は砂漠地帯でありヨセフがどのように食料を保管したのか聖書には書かれていません。
高官でしかも、国の二番目の地位であるなら何かしらの記述がありそうですが見つかってはいません。夢の解き明かしをしたことで政府高官になったヨセフですが、その様な優秀な人材が兄たちに言えば反感を買う様な話をしたのはどんな理由があったのでしょうか。
牢屋に入って献酌人に自分の無実を話す際にも、その経緯を話してはいません。親族の安全のため自分がイスラエル人であることは話していません。その様な配慮ができる人物なのに何故反感を買う様な夢の話をしたのか、筆者には理解しがたい部分です。
エジプトの遺跡から発掘された、高官の名簿の中におそらくヘブライ人であろうと言われている名前がいくつか発見されて居ます。しかし、それがヨセフを指しているのかは全く不明です。
また、妻の民族がどこに属するのかは手がかりが父親が祭司だった今年書かれていません。当時のエジプトがヒクソス王朝であるなら、その人々はシリアやパレスチナ起源のいろいろな民族の集まりなので、妻の父が祭司長であっても、生粋のエジプト人ではない可能性もあります。
ヨセフ考察2に続きます