古事記によれば、日本国を生み出したのはイザナミとイザナギです。
詳しくはこちらをご覧ください。

天の沼矛を使って、天の浮橋からコオロコオロとかき回して島を作り、天御柱を建て神殿を造り男女の交わりをとおして島々を生み出したとされています。
イザナギ・イザナミの名前の意味は誘う男、誘う女だとされていますが、ヘブライ語の音で解釈すると、『イシュア ナギィド』『イシュア ナミ』となります。
ダビデの王統の救い
イシュアナギィドには『神の救いの王子』という意味があり、イシュアナミには『ナミの家系の救い』という意味になります。
一方、旧約聖書中のイザヤという名前の意味は『神の救い』です。イザヤは当時のお王に仕える身分の高い人物で、弟子たちも多くいましたから、王子と呼ばれても不思議ではありません。イザヤのついてはこちらをご覧ください。

また、ナミの家系とは、旧約聖書中のナオミという女性のことを指していると言われています。ダビデ王の祖祖母に当たる人物ですが、ナオミは高齢のため実際にはナオミの孫ではなくルツという女性がナオミの代わりにユダの血統をつなぎました。
その理由は、ダビデからイエスへと約束の胤をつなぐためでした。

これは王笏はユダから離れず(創世記49:10)という言葉をイスラエル人が必死に守り抜いてきたことと繋がっています。
ですから、もしもイザナギ、イザナミがはるかユダの国から日本列島にやってきたのだとしたら、ユダの血統を守る重要な任務を携えてきたに違いありません。

イザヤ考察や、ルツ記 の考察をご覧いただくと理解できますが、聖書は一貫してイエス・キリストにつながる家系であるダビデの血統を決して絶やさないよう守り通してきたことがわかります。
この説が真実だとしたら、イザヤであるイザナミはレビの祭司たちや弟子たちを従えて日本列島にやってきたことになります。
その根拠として挙げられる聖書の言葉がこちらです。
彼らは光の地方(東の方)でヤハウェをたたえ、海の島々でイスラエルの神ヤハウェの名をたたえる イザヤ43:5
聖書中の東の意味
実は聖書の中で、東は特別な方角と言っても過言ではありません。
ヘブライ語の日の出を表す言葉と前方という意味から派生した言葉が使われています。
方向を決める際にヘブライ人達はん日の出の方向を見て、前後左右の基準にしていたのです。
ですからイスラエル人が前へ進むという場合、それは東ヘ進むことを意味します。
エデンの園の入口も東にありましたし、幕屋の入り口や神殿の入口は東に向けて作られました。単に東と訳されている箇所は、文脈によっては日の出の方角にある場所を指しますから言葉自体が特別な意味を持っているわけではなく、単に近隣の東側の土地うを指している場合も多くあります。
さて、このイザヤはダビデから後の王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤに使えていましたがそれ以降マナセに殺されたとされる説がラビの伝承に残っているだけで、その後の行方はわかっていません。
行方がわからなくなっているのは、イザヤだけに限ったことではなく、滅びた後の北のイスラエルの人々、イザヤの消息がわからなくなってから滅んだ南ユダ王国の人々も忽然と消息がわからなくなっています。
そして、このユダヤ人達の何よりも大切な神の臨済を証明する『契約の箱』も、16代目の南の王ヨシヤが神殿に運び入れた記述を最後に所在不明となっています。契約の箱が作られてから約900年ほど後のことです。
ユダ王国が侵略され、略奪されたもののリストには契約の箱は含まれていなかったので、ヨシヤの時代から、ユダ滅亡までの間にどこかに隠されたと考えるのが自然だと思われます。
さらに、イザヤ書の中のとある一節がこの契約の箱に関することではないかと考えることができるのです。
証を一つにまとめ、教えを我が弟子たちのうちに封じておく
イザヤ8:16
この証と訳された言葉は、神宝に関連付けられる場合にのみ使われている言葉で一つにまとめるという部分は、包むに関係する言葉が使われていて、神の宝を厳重に隠したことが伺えるのです。
イザヤが契約の箱を守るためにイスラエルを脱出し日本列島までたどり着き、島々を見つけ、島々を渡りながら国土を作り固めていったのかもしれません。
イザヤの誕生や死に関しては記載がありませんしメシアに続く家系の人ではありませんが、王に仕え影響力のある権力者であたことは間違いありませんから、日本列島にやってきて後に神格化され語り継がれたとしてもおかしなことではありません。
そして、バビロン捕囚の後に、第2神殿が建てられますがその時に契約の箱がないことに誰も意義を唱えていないことも不思議です。
そして、新約聖書のヨハネの黙示録には契約の箱は地上に無いと書かれています。
と、考察すると、イザヤの一行が契約の箱とともに日本列島へ渡ってきたに違いないとおもうのですが、筆者としてはどうしても納得できない部分があるのです。
古事記の三貴神たち
イザナギが黄泉の穢をはらって、最後に産まれた神々が三貴神と呼ばれる、天照大神、月夜見尊、素戔嗚命です。
素戔嗚命は古事記では、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)と書かれており、
進む・速やかに・求める・助ける・残り少ないなどと解釈でき、日本書紀では『素戔』の文字が当てられ『素』にはそのものといった意味があり『戔』は少ないという意味があることから『残りのものが国家の基になる』と意味が含まれているように感じます。
いっぽう、イザヤの子供は『シェアル・ヤシュブ』と『マヘル・シャラル・ハズ・バズ』です。
シェアル・ヤシュブには残りのものが帰るという意味があり、マヘル・シャラル・ハズ・バズには速やかな略奪という意味があります。
もうひとり、インマヌエルという名前が出てきます。インマヌエルはイザヤ書と新約聖書のマタイ1:23にしか出てきませんが、おそらくメシアであるイエスキリストのことを指しているのだ言う見方が一般的です。(ユダヤ教ではメシア出現の予言ではないという見方をしてイます)
インマヌエルには『神がともにいる』という意味があります。
文章の流れとしては、神に従わなくなってしまったダビデの王家に対し、イザヤがアッシリアの侵攻を警告した際に、マヘル・シャハル・ハズ・バズの誕生の描写と並行して、よく似た言葉を用いて語られています。
ですから、マヘル・シャラル・ハシュ・バズはインマヌエルであるイエスを予型する雛形的な存在として描かれているのでしょう。インマヌエルは称号的なものだったのかもしれません。
イザヤは子どもたちがイスラエルの中のしるしであると述べています。
また、証を一つにまとめ、教えを我が弟子たちのうちに封じておくとも述べていて、神の臨済の証と、3名の名前に意味があるとしたら、
残りのものが帰る場所にともに神がいるという意味になるのではないでしょうか。
だとしたら、スサノオが大きな鍵を握る存在だということになります。
イザナギとイザナミの国産み
筆者はユダヤの人々が日本に入ってきていたとしても何らおかしなことだとは思っていませんが、イザヤがイザナミであるとする説でどうしても納得できない部分があるのです。
それは、二人の島産みのエピソードです。
イザナギとイザナミの二人の名前には誘う男、誘う女という意味が当てられているというのが定説です。二人は柱の周りを回ってあらいい男!なんといい女!と述べて、結ばれます。
これって、実は旧約聖書中で何度も非とされたバアルの崇拝儀式に似ているように思えます。
男根を模した柱の周りを、神殿娼婦たちが官能的に周り、ありとあらゆる種類の淫行が教義と結びついていました。
ユダヤ教の結婚式では、4本の柱を立ててその上を布で覆って天蓋を作りその柱の周りを花嫁の母と花婿の母そして花嫁となる女性の3人が7周するというしきたりがありますから、柱を回ることは何ら不思議ではないのかもしれませんけれど、イザナギとイザナミの件には違和感を感じます。
イザナミがイザヤであればバアルではなく旧約聖書の神の言葉を告げる人でしたから、バアル的な儀式をしたとは考えづらいのです。
考えづらいのですが、バアル的な崇拝方法も一緒に入ってきたとも考えられます。
ということは、全くの別人か?イザヤを名乗る別人か?イザヤであったけれどバアル要素が後から何故か挿入された逸話なのか?あなたはどう思われますか?
実はバアルはパルミア3神と呼ばれる神のうちの一人を指しており、その3人の構図は天照、月読、凄ノ王とそっくりです。