アダム
世界中で最も有名な夫婦、アダムとエバ ヘブライ語聖書(旧約聖書)に登場する世界でいちばん有名な夫婦です。
アダムといいう名前には、地の人・人間という意味があって、
ヘブライ語で「אדם(アダム)」
ヘブライ語は右から左へと読むのですが、「אדמה(土)」アーダマーという言葉と、
「דם(血)」が語源となっています。土から作られた生きた人間と言う意味となります。

ヘブライ語聖書(旧約聖書)では神が最初に創造した人がアダムということになります。
内容については以下をご覧ください。

命を形に吹き込む
ヘブライ語聖書(旧約聖書)を経典に取り入れている宗教でも、アダムが粘土のように土を捏ねて形作られたという解釈は複数あります。
土ではなく、一滴の精液が血の塊になって人になったとする宗教もあります。
いずれにしても、粘土のような造り、神とされる存在もしくは神の指示を受けた誰かが、入れ物に活動するための命?的なものを吹き込む・・・という手順で作られたことになっています。
土である理由
ヘブライ語聖書ののアダムの記述は2500年以上昔のアジア地域で記述されました。当時、何かを形作るものとして一番身近なものは「土」でした。
もちろん金属もありましたが、人が金属でできていないことは明らかですし、土を捏ねて土器を作る作業はとても身近なことでした。
さらに、人が亡くなると骨だけになることを実体験で知っていたことでしょう。
生き物はすべて命を失うと、体は土中で分解されるからです。
ですから、土から生まれて土に還る。というのは非常に受け入れやすい事柄だったのではないかと思われます。
エバ
一方、エバはアダムの肋骨(あばらぼね)から造り上げられます。
エバには生きるという意味があって、ヘブライ語聖書によればエバが作られた目的は、アダムのためでした。

肋骨である理由
肋骨を外しても、骨膜が骨を再生するそうで、アダムの側のダメージは回復されそうです。
都市伝説っぽく考えるなら、古代宇宙人が猿人に細胞レベルで何らかのクローン技術を施し、知性のある人類を生み出したそれが最初のアダムである・・でしょうか。
ヘブライ語聖書の元になったと言われている、古代メソポタミアにヒントがありそうです。
シュメール初期王朝時代
紀元前2600-2500年頃 メソポタミアにおいて、ラガシュと、ウンマという2つの都市の闘いがあったことがわかっています。
このラガシュとウンマの間にはグ・エディン・ナ (シュメール語でGU.EDEN.NA)平野の境界という意味といういみがあって、非常に肥沃な平野がひろがっていたようで、その土地の帰属権を巡っての争いをしていたようです。
このような歴史上の記録は、当事者たちにとって不都合なことは記録されない場合が多く、勝利の記録しかない場合も多いのですが、戦争があったことは確かなようです。
残念ながらウンマ側の記録が発見されておらず、どの程度真実なのかを検証する手立ては今の所ありません。
ともかく、この2つの都市は隣国関係にありながら常に境界戦争をしていたのです。
グ・エディン・ナ
このグ・エディン・ナと言う土地はとても肥沃な平原で、部族ごとの生活をして放浪していたヘブライ人から見たら、あこがれの土地だったかもしれません。
定住し、安定することが民族の願いだったとしたら、そこがたどり着けない楽園、エデンのモデルになったと考えることができそうです。
しかし、ヘブライ語聖書が書かれた時期まで1500年ほどの時間差がありますからこれが真実だと断言することは出来ません。
ちなみにこのラガシュの守護神はニンフルサグです。
そして、ウンマという都市は、イナンナの冥界下りに登場する都市で守護神はイナンナの子共達だとされています。

ニンフルサグ
そして、このニンフルサグは別名ニンリル、ニンティーとも呼ばれます。
シュメール神話の中での最初の女性が「Nin-Ti」です。Ninは女性を意味します。
そして、TIはなんと、肋骨と言う意味なのです。
さらに、Tiには 生命、生きる、癒やす、などの意味もあったのです。ちなみに、Ti-Tiは乳房を表しTi-AMATで海を意味するそうです。
もしも仮に、ヘブライ語聖書を書いた人物がシュメールの神話を元に記述したとしたら本来命すべての母なる女性などと約しても良かったところを、肋骨を取って・・・と訳したのかもしれません。
なんだか辻褄があって来たような気がします。
ここで忘れていけないのが、シュメール神話は女神が第一の神で多神教です。
旧約聖書は一貫して唯一の神を崇め奉るべきだと教えています。
ですから、肋骨の女神をモデルにしたとしても、女性をすべての母のように表現するならば、地母神崇拝に繋がりかねず、ただ一人の神を崇拝するテーマにあわず都合が悪かったのではないでしょうか。
神の概念
シュメールの人々にとって神は人のような存在でした。食料が必要で、住まいが必要で、名前が必要でした。結婚し、子供を産み、家族とともに住んで、仕事の不満を述べ、争いも生じる、そんないかにも親近感のわく神々です。
だからこそ、神々の願いを成就するために神殿が必要だし、供え物が必要だし、それ相応の祭儀が必要となります。
一方、ヘブライ語聖書の神は、創造主で人格があって、自分を示されて聖なる存在、常に正しく完璧な義でありながら憐れみ深い、そんな父 それが神です。
流浪のヘブライ人たちは、そんな絶対的で様々な神々を一捻りにできそうな絶対権力の神を求めたのではないでしょうか。
ヘブライ語聖書によるエバ創造の目的
ヘブライ語聖書のよるエバが造られた目的は、アダムと対になり、アダムの助け手となるためだと書かれています。
この考え方が根底にあって、以降ヘブライ人たちは男性が家長で妻は夫の所有する者で妻は夫に所有される人となりました。
とはいっても女性に自由がない、男尊女卑的な考え方ではなく、唯一の神への専心を全うする夫を助ける(ともに崇拝し、掟を守る)ということのようです。
さらに、夫側には家族の罪は家長の罪でもあったため、妻や子どもたちの監督としての勤めが課せられます。
ヘブライ語聖書は一貫してただ一人の神を崇拝しその掟を守ることが人の努めだと教えているので、そのテーマとも一致します。
性別、生殖能力
アダムが造られ、エバが造られ、たあとアダムが述べた言葉はこうです。
これこそ私の骨の骨
私の肉の肉
これは女と呼ばれる 男から取られたから 創世記2:23
ここで言う女はヘブライ語でイッシャー
男はイーシュといいます。
そして、その言葉の前に神が述べた言葉は「「人」が一人のままでいるのは良くないと言っています。注意深く読むと、エバ登場前までは、アダムは男と呼ばれておらず、人、いわばヒューマンと呼ばれていることです。
イーシュ イッシャー と名付けたのはアダム自信ですから、(アダムは生き物に名前をつける役割があった)見た目に相違があったことは間違いないでしょう。
エバと言う名前がつけられたのは、二人が楽園を追放されてからのことです。
禁断の果実とは
ヘブライ語聖書では、この禁断の果実とは「善悪の知識の木」の実を指しています。二人は神からすべてのことを許されていましたが、その実を食べる禁じられていました。もしも食べるなら、必ず死ぬだろうと警告されていました。
木の実がりんごなのか?いちじくなのか?ぶどうなのか?ということは、さほど問題ではないような気がします。
何かを象徴しているのだとしたらなんの象徴でしょうか?
正しくは、警告されたのはアダムの方で、アダムにはエバを従えて教える義務があったのだと思われます。
結局、狡猾な蛇にそそのかされて、エバが違反し、アダムもそれに従い二人は楽園を追われることになりますが、その際に生じた出来事はこうです。
2人の目は開かれ、自分たちが裸であることに気付いた。
それでイチジクの葉をつなぎ合わせて、腰を覆う物を作った。
創世記3:7
更に、その後で神が自ら、アダムとエバに長い服を作って着せています。創世記3:21
これら、以前はお互いに裸でも恥ずかしさを感じなかったものが、恥ずかしさを感じるようになったことや、人が男という性別を持ったことから禁断の果実とは、欲しいと思っても手にすることが禁じられている性的な欲望のことではないか?という見方が多くあります。
なぜなら、嘘をついてとっさに口を抑えるほうが自然ですが、腰を隠したとは性行為的なことと関係していると考えるのが自然だからです。
それゆえ禁断の果実とは、不法、不道徳、許されない快楽、特に性的な意味合での快楽に関連付けられます。
はたして、二人が食べたもの(犯した違反)は何だったのでしょうか。
沖縄の古宇利島 人類発祥の神話
古宇利島の伝承にはアダムとエバによく似た話があるようです。
古宇利島に男神と女神が裸で暮らしていました。
毎日、天から餅が降ってきたのでそれを食べていました。
そのうち二人は、のこった餅を後で食べようと棚に隠そておくことにします。もしも見つかってしまったら、餅が降ってこなくなるかもしれないと思ったからです。
天の神は、ものを大切にすることを覚えたから、きっとこれからは自分たちの力で働いて生きていけるはずだと考え、餅を降らせることをやめてしまいました。
そこで、二人は海へ出て貝を獲ったり魚を獲ったりして、自分たちの力で生活するようになっていきました。
そんなある日、二人で海を見ていた時に、偶然生き物の交尾を目撃します。
二人は恥じらいを感じ、体の端々を隠すようになります。
と、このように子孫が増えていったと言うお話です。
さらに、驚くべきことにこの島に「安田」「伊部」という地名が残っていて、読み方はアダとイブなのです。